命のパン、命の水はキリストから。ミカエル小栗の随想。

主キリストは命のパン、水です。キリストの愛を感じたり、聖書の福音から読み込んだこと、徒然の黙想を書いているブログです。

聖書から福音から主キリストの愛を感じたり、
イエス様の語りかけを受けた、信仰生活のあれこれを随筆的に書いています。
聖書をあまり読んだことの無い方の参考になればと思いながら・・。


おはようございます♪「あなた方の言葉が、いつも親切で、塩味の利いたものであるようにしなさい。」コロサイ4:6 
私たちは上記の言葉に心砕いて生きたいです。
ネットSNSが発達して自由に1人、1人が自由に発言して書き込めるのですが、その発言そのものが主イエス様の栄光を言い表す言葉使いなのか?

私たちが意見したい出来事、意見を語り伝えたい対象者への思いやり、確かに正しいことを述べるにしても対象者の徳を高める配慮した言葉使いがあるのか?吟味したいですね。
私たち個人的に正しいと思っても神が認めた事なのか?も吟味したいですね。
例えばキリストの教会の品格落とす下げる言葉にも注意していきたいですね。
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やはり 私たちの品格が疑われない言葉使いで、発言をする対象者、相手の人の尊厳を傷付けない配慮した言葉が大事ですね。
神は 神の言葉で世界創造なさいましたから、。    

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わたしにはいつ見てもいるビジョンが有ります。けれど何年間も過ぎてきましたね。実現は無理かも?と過ぎた日々。試されているビジョンです。だけどビジョンが大きければ直ぐには叶いません。

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ビジョン遂行 実務力、それ以上に信仰という神へに信頼の成長する事も大事です。 
農家も家庭菜園(ベランダ)でも、きっと収穫出来ると夢ビジョンを見るから、種まきら始め肥料や水やりの世話を色々としますね。世話をしたら直ぐに実って手にする事は出来ません。時には失敗もします。風雨の被害も受けます。
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信仰の現状に合わない様々な情報、偽神学にも翻弄されながらも、聖書はいかに語っているか?の原点、常に探求し悔い改めながら御心を探し求めなくてはなりませんね。信仰と行動 発言のバランスが取れるように成長して年月が必須課題があります。また御子の栄光を表す時との調和も必要ですね。
その上で、御心に沿ってビジョンが叶う時が来ると信じます。小さな事でも祈り御心の時を求め信じる事も日々の位の中で訓練されて成長しませんか?

「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ、主が成し遂げてくださる。」詩篇 37:5 から。

写真はベランダに咲く苺、ミニトマト、ピーマンの花。
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アラム語の起源?

 イエス様はアラム語を日常会話として話し、聖書にも「タリタ・クミ」と話されたことがあります。
父なり神を、「アバ」と呼ばれた言葉もアラム語でした。言葉の最後の子音{ア」終わる場合は女性名詞が例外的に含まれることがあります。 有名な名前のマリアとかイザベラの子音の終わりは{ア}です。
聖書には他にもアラム語音源で表記されギリシャ後に変えられている箇所も案外あります。
「エリ・エリ・サバクタニ」 マタイ27:46

 アラム語のイエスはイェシューですので最後の子音には{ア}は含まれておりません。
アラム語から分かれたアラビア語にも子音の終わりが{ア}であれば女性の名詞でした。私がそれらの国での滞在経験あります。
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 イエス様はアラム語、そのほかにヘブル語も話され理解されておられました。ヘブル語のシャローム{שָׁלוֹם}をご存じだと思いますが、日常会話のこんにちは、さようならの意味で多用されていました。
ヘブル語のシャロームの本来の意味は、単に、争いのない、平和な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいいます。{平安、繁栄、健康的に、伊切意欲への充実、霊的知恵や霊的力への開眼、暗黒から愛の救い、罪豊に喝力と勝利}などの意味が含まれているシャロームです。

 日本語表記の「イエス」は、ヘブライ語のイェシュア、あるいはアラム語:(イェシュー)からです。
アラム語はセム{アラビア半島}の子孫、子供達が話していたことが分かります。
創 10:22 「セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。」

アブラハムは現在のイラク・ウルの町からカナンに旅をしました。
アブラハムはヘブル人とも呼ばれて事が聖書に書かれてあり、会話はアラム語と混ざっていたかも知れません。
  
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創14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。

創 24:10 「しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った」

創 25:20 「イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。」

ユダヤ人と名乗る前にはアラム人と言いなさいと、神は申命記で語られました。
申 26:5 「あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。」

 初期日常会話はアラム語、北西セム語族に属する言語。現代に至るまで約三千年の歴史をもつ。西南アジアからエジプトにかけて広範囲に資料があり、分類については諸説がある。イエス=キリストの母語は、この言語のガリラヤ方言とされて、ユダヤ民族(部族意識)と宗教的にヘブル語が使われてきた気がします。

ユ ダヤはギリシャにも支配されてギリシャ語は当時の標準語でしたので、イエス様もギリシャ後を理解されておられました。のちに占領したローマはラテン語でした。ですから、ローマ・カトリックの聖書はラテン語に翻訳されました。ローマ総督ピラトとの会話もラテン語だったようで、イエス様は数各語を理解されてと思います。

 当時の共通語になっていたギリシャ標準語を話すより、方言のアラム語をイエス様は話されたのでしょう。

 以上のことから親しい弟子たちには方言であるアラム語で教えられましたね。
皆さんがご存じの主の祈りですが、神の栄光を第一に求める事をイエス様が教えられました。

 神の栄光を求める事と神の臨在を第一に求めることから、主の祈りが始まっています。全知全能の神は、私たちが色々思い浮かべる前に、祈りを口にする前に、神は全てをご存じです。

 父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を求めて礼拝し、栄光と臨在の方に全ての回答があります。様々な日常の願いと希望、癒やしも神の栄光と臨在の中に在ります。ですから、この栄光と臨在を第一に求めるように教えられた気がします。
 神の栄光を求めない自己実現だけの願いには神は本当に振り向いて下さるだろうか!?

@ 現在、神を完全に信じ切れない人が、神の栄光を求め始めたら、癒やされたこともあります。聖書の中にも書いて在り、私の癒やしの祈りミニストリーでも起きました。その人は神の栄光を見たいが第一で、その栄光の中から第二に癒やしを受けたいと願った微妙な差がありました。

 言葉多くでは無く、祈る回数でも無く、神様との深い関係性が重要です。私たちが神の子だと同様に見なされる方法は、キリストの救い、十字架の購いを信じる事から始まります。

@ マタイ6章 7 ~8『また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。』

@ 全知全能だからと、一度だけの祈りと願いで終わりでも無いことも話され、それは私たちが、神様に求める熱心さも必要で、それはケーズバイケースであることも教えられました。

 ルカ7:4~6 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」 イエスは、彼らといっしょに行かれた。

 ルカ18:5~9 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

  自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
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 @負い目、負債の許しを求める。
主の祈りの隣人と自分自身の許しの祈りの直訳は次の通りです。神からの祈りの回答の祝福を受けるために、十字架で許されているのだから、「隣人をゆるそう、許すことが出来るように助け手下さい。」と祈り始めるとき、神が近づきやすくなります。罪や悪の中に神は臨在出来ない、しないからですね。

 アラム語の主の祈りは、
意訳では『秘めた怖れを「あなた」は既に許しておられるので、我らは、他者の秘めた怖れを許すことを我は選ぶ。偽りの見せかけに惑わされて、「実在」の忘却に陥らないようにさせたまえ!』との意味が直訳ではあります。
 この箇所から許されるから 隣人を許す時 神様は双方を祝福されますね。
教会内のつまづきを受けた人を許す決意を祈ると、神から祝福と癒やしを受けた私です。
私たちクリスチャンとなった者は、キリストの十字架で全てが許される約束があります、けれど、許されているのに、隣人を許さないことは、父なる神は遺憾に思われますね。

「隣人を許した用に、私の罪を許したまえ。」とも教えて下さったイエス様です。ですから人を憎む事を止め、許さないといけないですね。、一般的に人は急には出来ないので、聖霊の導きと助けをも求めていきませんか?

私たち、1人一人とは間違った考え方の人々。 イエス様は、ご自身と違った考え方や意見を持つ人々のは諭すが、強制的に押し付けなさらない神の姿もあります。
異端の教えに囚われた人に対しても、聖書は自分で聖書を読み、調べるように入っていますが、強制的に信じさせていないですね。
 
根本的に間違っている教えを信じたり、これが本当か?と聖書 神の言葉を探す 確かめ無いので間違った教えのままになります。又 神から許す本質追求しない事を拒む人には最後の審判がありますけれど、それは荒野でモーゼの杖に掛けた蛇を見上げ救われた人と拒んで死んだ人にも似ている気がしますね。

 イエス様は、日々のパン、日曜の粮を求父なる神に求める用にも言われました。
ナザレは穀倉地帯でしたが、ローマに農作物であった麦が搾取されていて、民衆は食べ物、特にパン その他 日曜生活に困ることが多かったので、安心して頼れる父なる神にパンのために祈り求めるように言われました。
神に求めると 祈りに応えられる体験がしやすい日用の粮を通じて、神体験をしやすくなるからだと思います。
あなたの祈りを通しての神の答え、神体験がリアルに出来るように求めていきませんか?

主の祈りの1番重要なこと、祈りの初めは神の栄光を求める事、神の臨在に包まれるように祈り事をイエス様は第一に求めることを促されました。神を賛美感謝するとき、神からの恵みが増します。

アラム語の聖書が私の身近にあると良いな~と思います。
同じ大阪とか関西弁でも、地域によって語気の強さで印象が変わるね。大阪 神戸 姫路の播州弁も、京都弁で同じ意味でも語気が違うと聞いたら印象が微妙になる。


主の祈り、新改訳聖書第三版 マタイ・6章2~4
だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
6:10
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

アラム語の主の祈りをアラム語からシリヤ語 ギリシャ語に訳され 英語、ラテン語などから日本語になりました。原語に忠実に意訳された後に、その国の言葉に置き換えられます。その翻訳に関わり人々の言葉への感性で微妙な違いが出るのは矢も得ないです。

原語からイングランド王ジェームズ1世の命令で英語に訳され、それを日本語に文語訳訳になったと思います。その文語訳から口語訳に成りました。
色々の多国語から訳すよりは原語から直接日本語になった聖書が良い気がします。ソのれ派新改訳聖書でしたが、言葉は時代と共に変化したり使用禁止の言葉が出来てきます。明治の頃に「ライ病」と言われた言葉が、「重い皮膚病』に変化したりしましたが思い皮膚病で「アトピー性皮膚炎』を思い浮かべ差別だと思い人も出てきます。新約聖書の原文のギリシャ語のとおり「レプラ」のままの表記が良い場合もあります。
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ギリシャ語セプトゥアギンタ訳で は 使われた言葉がラテン語ウルガタ訳で は こ の 語 は使われていないことも訳 され て い な い ケースもあります。訳者の感性と訳す先の国の言葉の使用の目的の意味やギャップからの違いでしょう。
 
私は新改訳聖書第三版を主に使います。共同訳聖書が出版されたときに読みましたが、ローマカトリックのラテン語やエキュメニズムの流れを受けた影響が濃く、固有名詞の相違がプロテスタント訳の多く相違点が初版版は不評でした。次に改訂版新共同訳が出版されました。
他国原語と日本語表記と使い方の難しさと馴染みやすさがどの翻訳も問題です。

@ 疑問を持ったら一冊の訳本で聖書を読みより。幾つかの聖書を読み比べると意味が深くなります。

イエス様が父なる神をアバと呼びかけましたが、「アバ」という言葉のアラム語翻訳である「私たちの父」から始まります。しかし、実際のアラム語の音訳は「アブーン」です。これは、「アバ(父)」と「ウーン」(子宮)をブレンドしたもので、イエスは男性と女性の創造の源を認識しています。
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 アラム語の意訳から、英語、日本語に訳した主の祈りをご覧下さい。

おお、バーサー{創造、生み出す}!コスモス(宇宙)の父母、あなたは光の中で動くすべてのものを創造します。
「アバ」という言葉の翻訳である「私たちの父」から始まります。しかし、実際のアラム語の音訳は「アブーン」です。これは、「アバ(父)」と「ウーン」(子宮)をブレンドしたもので、イエスは男性と女性の創造の源を認識しています。
あなたの名前を神聖に私たちの中にあなたの光を集中させてください—それを有用にしてください:
ビーコン(かがり火、のろし、導き手、案内役、発信機、)の光線が道を示すように。

あなたの王国が来る

私たちの「私はできる」をあなたのものに結びつけて、私たちがすべての生き物と一緒に王と女王として歩くようにします。
あなたは天国のように地上で行われるでしょう
私の中に神の協力を創造してください—多くの自分から、一つの声、一つの行動から。
この日私たちの毎日のパン(知恵や知識も含む)をください
毎日必要なものをパンと洞察で与えてください。
そして、私たちが債務者を許すように私たちの借金(人と神からの負い目)を許してください
私たちは他の人が隠しているものを一貫して許しているので、私たちの隠された過去、秘密の恥を許してください。
そして、私たちを誘惑に陥らせるのではなく、悪から私たちを救い出してください
外側にも内側にもだまされていない—私たちを自由にあなたの道を喜んで歩かせてください。
あなたは永遠に王国であり、力であり、栄光であるからです。アーメン。

@私たちが唱える主の祈りとは違います。意訳された後、色々の国の言葉に変化しました。

O Birther! Father-Mother of the Cosmos, you create all that moves in light.
Hallowed be thy name
Focus your light within us — make it useful: as the rays of a beacon show the way.
Thy kingdom come
Unite our “I can” to yours, so that we walk as kings and queens with every creature.
Thy will be done on earth as it is in heaven
Create in me a divine cooperation — from many selves, one voice, one action.
Give us this day our daily bread
Grant what we need each day in bread and insight.
And forgive us our debts as we forgive our debtors
Forgive our hidden past, the secret shames, as we consistently forgive what others hide.
And lead us not into temptation but deliver us from evil
Deceived neither by the outer nor the inner — free us to walk your path with joy.
For Thine is the kingdom, and the power, and the glory, forever. Amen.
From you is born all ruling will, the power and life to do, the song that beautifies all from age to age it renews. Amen.


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信仰継承には、毎晩 寝る前に我が子に聖書の読み聞かせをお勧めします。

幼い時から寝る前の読み聞かせがベストですね。もしかしたら小学生? 年齢的には大きいかも?でもね 聖書の解説は別にしても親子で夕食の後とか 寝る前とか一緒に聖書を読むことが信仰継承にはベストでしょう。 
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以下の聖書箇所は、求める事の例え話だけど、友人からの頼みを断る第一の理由は 父親は寝る前に子どもに聖書を読み聞かせをして信仰継承する大事な時間でした。 私が中近東滞在中に、親はコーラン(モーゼ五章)聞かせていると聞きました。読み聞かせ意外に、5歳位から初めて文字も父親が教える決まり習慣が有ります。幼い時から読み聞かせをすると親の言う事を素直に聞く子にもなりやすいデータも有りますよ。

 イエス様が教えられた求める事の例え話だけど、友人からの頼みを断る第一の理由は 父親は寝る前に子どもに聖書を読み聞かせて信仰継承する大事な時間でした。 ヨセフから受けた体験が元になっていると思われます。

クリスチャンの親も見習っても良いと思いますが、如何でしょう?
求め続ける例え話以外に イエス様は 信仰継承の大切も同時に語っていると思います。

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聖書 ルカ11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
11:7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
 クリスチャンの親も見習っても良いと思いますが、如何でしょう?
求め続ける例え話以外に イエス様は 信仰継承の大切も同時に、イエス様の体験も語っていると思います。

 寝床に入り子供に大事な時を過ごしていたので、隣人の願いを律法を無視させて聖書を読み聞かせたい重要な時間だったので断ったのですね。
ヨセフはイエスにも弟ヤコブたちにも聖書を読み聞かせ続けたと思います。

ヤコブは後に第一回エルサレム公会議に時に、旧約聖書聖書とイエス・キリストの福音を結び合わせる為に重要な発言をして認められております。

 旧約聖書とイエスの福音を結びつけたヤコブも、これもイエスの養父となったヨセフからの引き継ぎしていた賜物ではないでしょうか? ヤコブの働きと発言が、旧約の律法主義だったパウロを変える要因にもなったと思われます。

個人の自由が優先されて、信仰も自由だと考えるクリスチャンも増えて、親の信仰と子供は別だと云う方もおられますが、それは間違っている気がします。父なる神が悲しむと思います。私たちの真実神が一番素晴らしいと、その恵みと永遠の祈りの救いのキリストがベストだという事を 、言葉で伝える以上に、日常生活の姿を私たちが子供に見せて行くことが、言葉で強要するよりも重要だと思いますが、如何でしょうか?
日頃から、神の恵みの素晴らしさを、賛美している姿をあなたの子供が見て育つことが一番大切ですね。
 童謡にもあるように、「ほっほっ ホタルよ!こっちの水は甘いぞ!」とあなたが神を喜んでいる姿が、子供達にはベストだと思います。
何時も神、キリストを喜んでいる姿が子供には良い信仰継承になります。

詩 22:23  主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。

詩 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩 107:32 また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。

あなたとあなたの家族に、神の祝福が豊かにありますように。

      


「思いわずらいを、すべて神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Ⅰペテロの手紙5:7 JCB 
なのに、あなたはそんなに心配して思い煩うの?神の愛の思いやり、力を信じていないの!?全てを面倒みて下さる主なる神に任せないる気が無いから 思い煩うの?
任せる迄、私たちの意志を確認なさる また確認する神ですね。
解決を焦らなくても大丈夫だよ。神が解決する時までじっくり忍耐 待てば良いのだからね。
今日 一日 祈ったら心配しないでも良いよ。

「だから、あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイの福音書6:34

主があなたのわき(原語は腰の側)におられ、あなたの足がわなにかからないように、まもってくださるからだ。(箴言3:26)
何となく 祈っるって単なる気休めだよね。 だから 耳ある神キリストが聞いておられるのですから、信じて答えられる神キリストが、神とあなた双方に良い時、神決められた時(年月)迄心配しないで、思い煩うこと無く待てばいいんだよ!

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
(イザヤ書41章10節


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